私にとって、ゴムノイナキ60年の歴史とは。
光野相談役のお話し
創成期のゴムノイナキに入社した光野相談役。
当時の会社の様子をはじめ、二代目栄太郎社長のことなど
貴重なお話しを語っていただきました。
入社してから60年をふりかえって
オートバイで部品を運んだ日々。
1957年(昭和32年)、就職難の時代でした。岐阜県下呂市にある益田高校から、高卒の私が就職したのがゴムノイナキでした。「ゴムの仕事とは何だろう?」と正直思ったものです。
当時、会社は30人にも満たない規模でした。社長は創業者でもある稲木栄三さんでしたが、栄三さんはすでに病床におられましたので、実際に会社運営をされていたのは専務の西 平太郎さんでした。私が実際に栄三さんとお会いしたのは一度だけで、お話も筆談レベルだったので、お声を交わす機会がないまま亡くなられたことが心残りです。
最初の私の仕事は、「営業補助」でした。主な仕事は、荷造・配達が中心で、たとえば早朝、国鉄(現:JR)熱田駅の貨物窓口まで行き、仕入先様から届いた荷物を引き取り、自転車や大八車で上前津まで運び仕分けして、お客様に納品するのが日常業務でした。
思い出深い記憶は、一番のお得意様だった刈谷市にある「日本電装(現:(株)デンソー)」様へ、名古屋の上前津からオートバイに積めるだけの荷物を満載して、道路も劣悪な中、雨の日も雪の日も毎日2往復納品していたことです。
その後、オートバイからオート三輪になり、1962年(昭和37年)頃からは、トラックでの納品へと変わり、仕事がだいぶ楽になった事を覚えています。
当時、会社は家族のような雰囲気で明るく仕事をこなし、慰安旅行や忘年会などの行事は今でもとても楽しい思い出として残っています。
入社して6年たったころ、経理へ配属となりました。営業や経理のベテランの方々が退職され、簿記・珠算、ともに1級の資格を持っていた私に声がかかったのでした。「帳簿は未経験だから」と一度は断わりましたが、当時の専務から懇願され承諾するしかありませんでした。
それからというもの、毎日、夜11時、12時までの残業が当たり前となりました。
伝票・帳簿類が全て、「手書き、ソロバン」だった時代ですから、その手間ひまのかかり様は今の時代からは想像もできないでしょう。結局、休めたのは、盆と正月だけでしたが、職場がアットホームな雰囲気だったこともあり、少しも苦労だと思いませんでした。
2つの出来事。
ゴムノイナキ人生で、大変な思いを二度したことがあります。
一つ目は、1975年(昭和50)年、経理にコンピューターを導入したときのことです。
それまでの経理業務は「手書き、ソロバン」で何とかこなしてきましたが、お客様の数も増え、取り扱い部品も一気に増加しました。これ以上は手作業での業務を続けるには限界と考え、経理業務の効率化と在庫管理などの一新を図るため「コンピューターの導入」を決断しました。社内にはその方面に詳しい者が居るはずもなく、素人の私が責任者となりました。
本当なら導入するために助走期間を設けるべきでしたが、「現場が回らない」ということで、一気に切り替えることに決定しました。「一つ間違えると、全部イチからやり直し」というのが「コンピューターシステム」です。今思うと大変な「大バクチ」を打ったものだと思っています。また、この当時に当社の規模で経理の電算化を全面導入して成功したのは当社くらいだったことは、後で業者の方から聞いた話です。おかげで、その20年後の「インターネット」「電子メール」「社員1人にパソコン1台」という時代の要求にも躊躇なく対応できました。
そして、もうひとつ、心底肝を冷やしたのが、昭和40年代前半、家電の部品生産が最高潮の頃のこと、とある取引先の企業からの売掛金回収がスムーズに行かない事態が起きました。当社の総売掛金の約半分を占め、最悪の場合は当社も危機的状況に陥る可能性がありました。
「これは大変だ!」ということで、即刻、営業担当常務の栄太郎氏とともに、先方様に伺い、丁寧に粘り強くお願いすることで、事なきを得ることが出来ました。私が経理として関わってきた中では、あれが最初で最後の「一大事」と言えます。当時、銀行もお金を貸してくれない時代に入っていました。あの時、資金繰りで一歩間違えば大変なことになっていたと今でも思っています。
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大江—加福町間を走行する市電・市バス・名鉄築港線と
ゴムノイナキ電柱看板(撮影1973.10服部重敬) - 光野が入社した当時の上前津社屋
二代目 稲木栄太郎社長の想い出
頑固で我まゝな栄太郎社長は、非常に社員を大切にする人でした。
1970年(昭和45年)に、二代目の稲木栄太郎氏が社長に就任しました。私の知る栄太郎さんは、どうしようもなく「頑固で我まゝ」な人で、「会社も、いろいろと厳しくなるだろうなぁ」というのが、私の正直な気持ちでした。
しかし、私の予想は全くの杞憂でした。むしろ、社員の意見を積極的に取り入れるだけでなく、「技術研究所の設立」、「海外進出」など、会社を急成長へ導く牽引者となったのです。100人にも満たなかった会社が、その後500人を超す規模の会社になって行くのですから、その手腕が確かなものだったと言わざるを得ないでしょう。
頑固者であり、上下関係・礼儀・道徳には厳しく、何事にも筋を通す人でした。怒鳴る様に怒ってはいたが決して引きずることなく、さっぱりしていました。
それに、いわゆる「ワンマン社長」ではなく、「俺は商売がわからん」(東大文学部卒)といいながら、会議では社員からの意見に真剣に耳を傾けていました。
そういえば、栄太郎社長就任後、「これからのゴムノイナキはどうあるべきか」というテーマで提案書を社内募集したことがありました。よい企画には賞金が出され、私の案も「良かった」との評価を受けて驚いた記憶があります。
積極的に社員の意見を取り入れていった栄太郎社長は、社員が失敗しても個人を責めることは一切ありませんでした。「もし社員が失敗したのなら、任せた私の責任であり、私の失敗だ。」と言って下さるのだから、任される私たちも必死になって頑張ることが出来ました。
社長自ら推進した、「技術研究所の設立」と「社是の設定」。
その一方で社長になってから、ご自身で決められたことが2点だけあります。それが「技術研究所の設立」と「社是の設定」でした。
技術研究所の設立は、誰の相談もなく「技術研究所を造るぞ!」と宣言。このときから、すでに「メーカー機能を備えたグローバル技術商社」という考え方も発言されていました。まさに先見性があったといえるでしょう。
社是を設けたときも、「会社が大きくなるためには必要だろう」ということでスタート。栄太郎社長の考えた「進取」を取り入れた以外は、社員たちで項目を決めていき「進取・誠実・協調」の社是が完成しました。
社員の声を聞き、先見性のある社長でしたが、「企業に永遠なんてない」ということを、時おり口にされていました。たぶん常に危機感を持っておられ、「時代の先を進むべきだ」という考えの表れだったかもしれません。それが今や創業100年を迎えるのですから、不思議なものです。もし栄太郎社長が、現在のゴムノイナキを見たら、どう思われ、何とおっしゃるでしょうか?聞いてみたい気もします。
- 栄太郎氏が提唱した「進取」はゴムノイナキの理念の根源である。
- コンピューター化を進めながら光野は愛用するそろばんも放さなかった。
PROFILE
相談役 光野 重治
1939年(昭和14年)生まれ。1957年(昭和32年)入社。
入社当時は客先へ製品の配達業務からはじまり、数年後は経理部門へ配属。早い時期にコンピューター化を進める。2001年(平成13年)代表取締役副社長就任。2代目稲木栄太郎社長の右腕として会社を支えてきた人物である。